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画紋工房

2008年12月にガタケット103(3月22日)に向けてなんとなく結成された二人組サークル『画紋工房(がもんこうぼう)』のブログです。コピー本を作ってガタケットにちょびちょび参加しております。

小説②リンプーちゃん、お年頃なんだからもうちょっと……。



 外からの激しい雨音を半ば楽しむような表情で、リュウは本を読んでいた。共同体の寮、玄関を入ってすぐのソファには、リュウ以外誰もいない。
 廊下の突き当たりから、賑やかな夕食の音が聞こえてくる。リュウも食事に加わりたいのだが、共同体のリーダーとして責任があった。
 遊びに行って帰ってこないリンプーを待たなければいけない。
 リュウはそばに置いてあるバスタオルに眼を落として嘆息した。ずぶ濡れで帰って来るであろうリンプーにタオルを渡して、体を拭かせる。この責務を果たさないと、寮内が大変なことになるのだ。
 体をぶるぶるっと震わせたリンプーの体毛からしずくが飛び散り、玄関は天井までぐっしょり濡れ、あちらこちらにリンプーの足跡が残る。
 モップを持ってリンプーの後を追う羽目になる自分を想像して、リュウはまた嘆息した。ずぶ濡れのまま平気で寮内を歩き回るとは思っても居なかったのだ。
 なんだか子守のような気もするが、決して子守ではない。今まで一人で生きてきたのでリンプーは共同生活や人間社会の仕組みというものがよく理解できていないのだ。
 と、リュウは自分に言い聞かせている。そうでもしないとやっていられない。
 賑やかな食堂からの音に羨望を感じながら、リュウはまた本に視線を戻した。
『やさしい大工仕事 上級編』
 上級編にもなると、かなり難しい。
 食堂からディースの笑う声が一瞬聞こえ、リュウは慌てて本から顔を上げた。
 俺の分のハンバーグはまたディースに食べられてしまうのだろうか。
 切なさに空腹感が加わって、リュウは嘆息した。
 滅多に大声を出したりしないニーナの声が聞こえた。ディースとしばらく口論していたようだが、ディースの高笑いの後、ニーナの声が聞こえなくなる。
 どうやらリュウの分のハンバーグはディースに食べられてしまったらしい。
「あああ……」
 リュウは思わずうめき声を上げた。ハンバーグを食べられた事もさることながら、ニーナがディースにからかわれていないか気になる。元お姫様のニーナは、ディースが得意とするセクハラ的な発言に弱い。リュウとの仲をからかわれると、ニーナはしばらく会ってくれなかったりする。
「ううう……」
 この間ニーナとあった事を連鎖的に思い出して、リュウは煩悶した。ディースにばれていないようにので、それだけはいいのだが……。
「ただいにゃー」
 滑舌にも元気のない声が玄関から響いて、リュウは顔を上げた。
「濡れにゃんこー……? ねずみ?」
 肩を落として体中からぼたぼたと水滴を落としたまま、リュウを見つけたリンプーが言った。大きな眼をぱちぱちと瞬かせてリュウをじっと見つめる。
「ねずみ」
 リュウは答えながらバスタオルを持って立ち上がった。
「今リンプー濡れにゃんこだよ?」
「いや。濡れフーレン」
「にゃるほろ」
 虎の獣人である誇り高き戦闘狩猟民族という自覚はリンプーにないらしい。
 ぐっ、とリンプーの体全体に力がこもる。鍛えられた筋肉が膨張して体格が一回り大きくなった。
「ストーップ!」
 バスタオルを広げながらリュウが叫び、大きなバスタオルで玄関をふさぐように立ちはだかる。
 豪雨が横から叩き付けてくるような衝撃がタオルを押し、リュウの体にタオルが押しつけられる。ほんの何秒間か水滴が激しく叩き付けられる音が続いた。
 再び豪雨の音が他を圧するように戻ってくると、べろん、とリュウの体に張り付いていたタオルが力なく垂れ下がった。
「うう……」
 濡れた不快感にリュウは自分の顔を拭った。真剣な表情を作って言う。
「……リンプー」
 天真爛漫な眼がリュウを一瞬捉えたかと思うと、リンプーの頭が勢いよく振られた。
「ううう……」
 水滴を叩き付けられ、ぐっしょりと濡れた顔をリュウがまた拭う。
「……ぶるぶるは、お外で」
 顔から手のひらで水滴を拭い落としながら、リュウはリンプーにバスタオルを渡した。
「にゃー」
 イエスなのかノーなのかわからない返答を返しながら、リンプーは濡れたバスタオルを肩に担いだ。体を震わせて水滴を飛ばしたおかげで、体毛は軽く雨にあたった程度になっていた。
 そのまま機嫌良く食堂に向かおうとする。
「めっ!」「にゃ」
 リュウの叱責に、リンプーは不思議そうな表情で振り返った。
「ちゃんと体を拭いてから! バケツはそこ!」
 腕組みをして、リュウは高圧的に言い放った。
「むにゃー!」
 明らかに否定・抗議の声を上げながらリンプーは玄関においてあるバケツに向かい、タオルを絞って体を拭き始めた。
 リンプーが本気になって殴ってきたら即死の危険性があるのだが、それはそれ、これはこれである。
 台風に敢然と立ち向かう気持ちで、リュウはリンプーが体を拭くのを見守った。獣人で体毛が濃いので裸を見ている気にはならない。元より身につけている衣服といったら、防具の胸当になりそうな鋼の使われたブラジャーだけだ。
 胸は体毛が薄いらしいので、リンプーがブラジャーに手をかけた時点で視線を逸らす。ちょっと逡巡して視界の端でちゃんと拭いているか確認すると背を向けていた。残念に思った自分が少し恥ずかしくなる。
「おしまい!」
 最初の抗議の声とは違った、嬉しそうな快活な声にリュウも嬉しくなった。振り向きざまに言う。
「やっぱり体を拭くと……」
 周りが鍛えられているせいで一層柔らかく見える乳房にリュウの眼が釘付けになった。雨の寒さのせいか乳首がつんと上を向いている。
「リンプー、ブラジャー」
 妙に平坦な声がリュウの喉から出た。視線は胸に向いたままだ。
「にゃはー……」
 リンプーが照れ笑いして、ブラジャーをつける。リュウはブラジャーのホック部分のつくりに感心した。
「やっぱり体をちゃんと拭くと、気持ちがいいだろう?」
 さっきの嬉しさとは別の嬉しさを隠すように、明るくリュウは言った。心の中で感謝の辞を述べる。
「うん!」
 開けっぴろげに、にっこりと笑ってこっちを見る少女は年齢よりも幼く見える。
 リュウは自分の教育が成功したことと、不慮の事態に満足して微笑んだ。リンプーにあまり羞恥心がないおかげで、後ろめたさもあんまりない。
 微笑んだまま、リュウはリンプーの体がちゃんと拭けているかチェックした。毛並みの事を考えて拭いていないのか、あちこち毛羽だったようになっている。
 体のあちこちがまだ濡れているが、体毛が多くて大変なのかも知れないし、今のところはこれでいいだろう。
 と、思っていたリュウの視線が、一カ所で止まった。眼が大きく見開かれる。
「えー、あー、うん。リンプー」
 ぷい、と視線を無理矢理引きはがすように逸らしてリュウが言った。
「えーその、もうちょっと頑張って、拭いてみようね。俺新しいタオル持ってくるから!」
 ダッシュで遠ざかるリュウを、リンプーは不思議そうな視線で見送った。



「ふう」
 大判のハンカチの隅に刺繍をしていたニーナは、一息ついて顔を上げた。刺繍しているのは竜の紋様を簡略化したものだ。
 雨脚の弱くなってきた暗い外をじっと見つめる。そろそろ夜も更けてきた。
 リュウちゃん、このハンカチ気に入ってくれるかな……。
 以前から時間を見て刺繍をしていたもので、刺繍に自信もあるのだが……。リュウはあんまりおしゃれに興味があるタイプではないのだ。
 気に入って貰えなくても、リュウちゃんが使ってくれるならそれで……。
 しとしとと降る雨を見ていたニーナの頬が、不意にぽっと赤く染まった。
 視線をできかけの刺繍に注いだまま、ニーナの心は追憶の彼方へと飛んでいく。



 雨がしとしとと森に降り注ぐ中を、四人は小走りに進んでいた。
「あったー!」
 先頭を走っていたリンプーが歓声を上げた。
「一番乗りー!」
 突進の勢いで洞窟の中へと走り込んでいく。
「危険がないかちゃんと確かめなきゃダメだぞー!」
「前来たからだいじょぶー。たーんけーん」
 心配そうなリュウの声に返事だけを残して、リンプーの姿が洞窟の中へと消えていく。
 続けて洞窟にたどり着いたリュウ、ニーナ、ディースはそれぞれ持っていたタオルやハンカチで体を拭く。ディースが使っているタオルはリュウが持たされたものだ。
 散歩がてらのモンスター退治だったのだが、急に天候が変わるとは思っていなかった。森の木々に遮られて見えない空を見上げ、リュウは洗濯物の心配をしていた。
「やあねえ。濡れちゃったわ」
 ディースがぞんざいに投げてよこした濡れたタオルを、リュウは視界の端で捉えてキャッチした。ディースの声音に少しばかりの不機嫌さを感じたリュウは、ディースの方に向くことをしない。
「……ふむ」
 不機嫌をぶつける対象を見つけられないディースが、洞窟の奥をのぞき込んで言った。
「あたし、こういう所落ち着くのよね……」
 少し機嫌良く言ったディースは、そのまま下半身の蛇体をくねらせて洞窟の奥へと消えていく。
 リンプーもディースも夜目が利くので明かりがなくても大丈夫なのだろう。
 取り残されたリュウとニーナが、同時にほっと吐息をついた。お互いに顔を見合わせて、小さく笑う。
 しばらく、雨音だけが二人を包んでいた。世界にそれ以外の音がないかのように、静かな雨音が二人を抱擁する。
「……いつもリンプーちゃんやディースさんで騒がしいから、すごく静かね」
「そうだね、二人きりだしね」
 ニーナの何気ない言葉にリュウが返答した瞬間、ニーナの頬が真っ赤に染まった。その意味に気づいた瞬間、リュウも頬を染めた。
 ニーナは真っ赤になった頬を隠すようにうつむいて、もじもじと組んだ両手を動かしていた。ちょっぴり目線を上げてリュウを見ると、ごまかすように背中を向けて上を見ている。
 リュウのその態度に、ニーナは少しだけ腹が立って顔をそむけた。
「……ニーナ」
 呼ばれて、ニーナははっと振り向く。その唇に、柔らかい物が触れた。顎に振れている物がリュウの指だと、視界を埋めているのがリュウの顔だと気づいたのは全てが終わった後だった。
 ただ、ニーナは何が起こったのかわからず、驚いて身を引いてしまった。
「ご、ごめん」
 戸惑ったリュウの言葉になぜか腹が立ち、ニーナはむくれた顔でうつむいた。耳まで真っ赤に染まっているのが自分でもわかった。
 盗み見すると、リュウも顔を赤く染めてうつむき、肩を落としている。
 ……謝る事なんて、なかったのに。
 リュウが謝ったことに、しょげてしまっていることに自分でも驚くくらい腹を立て、ニーナはうつむいて足下の小石を蹴った。腹を立てているのと同じくらいリュウを慰めてあげたいのだが、どうしたらいいのかわからない。
 ……あたしはどうして欲しかったんだろう。リュウは今、あたしのことをどう思っているんだろう……。
 そんなことが脳裏に浮かび、ニーナは足下の小石をもう一度蹴った。
 どうしたらいいのかがわからなくて、ニーナは悔しさに、悲しさに唇を噛みしめた。
 さっきよりも弱まった雨音が、二人を優しく包み込んでいる。



「はああああ……」
 あまりにも重いため息を、ニーナはゆっくりと吐きだした。いくら前のことを思い返しても現在の状況が変わるわけではない。
 ディースさんにはリュウちゃんのハンバーグを食べられてしまうし、みんなの居る食堂でからかわれちゃうし……。
『そんなにリュウちゃんに精をつけて欲しいのはどうしてなのかしらね~?』
 ずい、と体を前に乗り出してきたディースの言葉に、ニーナはただ何も返せず顔を真っ赤にした。キスされてからリュウを引き合いに出されるとすぐ顔に出る。ディースも最近何かあったことを感づいているのか、すぐにリュウを引き合いに出してくる。
 ただ、前と違ってそれほど嫌な感じはしない。前よりは恥ずかしいが……。
 刺繍を続ける気にはなれず、ニーナは椅子から立ち上がるとベッドに軽く飛び込んだ。
 クッションがニーナを受け止める。
「リュウちゃん……」
 呟いてみたが、それで自分の心が定まったわけではなかった。
 いつも枕の横に置いてあるぬいぐるみに手を伸ばす。ボタンと簡単な刺繍、毛糸で作られた手製のぬいぐるみだ。
 リュウのシャツを使って作ったぬいぐるみは、ボタンの眼でじっとニーナを見つめている。刺繍の口は微笑んでいた。
「……リュウちゃん」
 ぬいぐるみを顔に押しつける。リュウが破けて捨てようとした布を、雑巾にするといって貰い受け作ったぬいぐるみ。自分でもちょっと変だとは思ったが、どうしても欲しかった。寂しい時に抱きしめていい、リュウの代わりになる物が。
 ぬいぐるみからは、リュウのにおいがする。優しい日差しのようなお日様のにおい。最初にどきどきしたリュウのにおいは、もうニーナのものと混じって区別がつかなくなっている。今感じているリュウのにおいも単なる思いこみなのかも知れないが、ニーナはそれで満足だった。
「リュウちゃん」
 その名前を口にする度に、体が火照り、心が募っていくのがわかった。しかし、もう止められなかった。
 ぎゅっとリュウのぬいぐるみを抱きしめる。これが本当のリュウだったら、どんなにいいことだろうか。
 歳月が経つのは早く、人は変わっていく。やんちゃな弟のように感じていたリュウが、今では頼もしい異性として感じられる。
 そしてニーナも、世間知らずの少女から、一人の恋する女へと変わっていた。
「リュウちゃん……っ」
 体の火照りも、リュウを求める心も、もう止まらなかった。手がゆっくりと、下腹部と乳房に伸びていく。
 するりと手がパジャマの下に入る。ニーナは眼を閉じた。眉がゆっくりと寄せられる。
 思い人の名を呟こうと、口が開かれた。
「リュ」
 控えめなノックの音がそれを中断させた。驚いて体がびくりと動く。喉から出かかった声は止められなかった。
「……ウちゃ……っ!?」
 はっと口を押さえるがもう遅い。声は驚きで大きなものになっていた。
「ぅおっ?!」
 ドアの外で二回目のノックを終えたばかりのリュウは、自分の名前らしきものを聞いて驚愕した。



 ニーナはベッドの上に尻を着いて座り、何度も襟元を直していた。リュウのぬいぐるみは背後に隠してある。
 リュウはドアから入ったすぐのところで、視線を逸らすようにして頬を掻いている。
 気まずい空気が部屋に充満していた。
 混乱しているニーナはうつむいたまま顔も上げられず、ただ頬を真っ赤に染めてぐるぐると思考を巡らせていた。
 どうしてこんな夜にリュウちゃんが? 聞かれた? 聞かれちゃった? 荒い息づかいとかも? どうしたらいいの? そもそも用件は? 入る時もすごい小声だった! 人に悟られたくない用件?
 耳まで真っ赤にして、ニーナは思考を巡らせた。段々訳がわからなくなって頭がくらくらしてくる。
 ももももしかしてその、えっちな用件なの? あたし今日下着可愛くないよ?
 ニーナの脳裏に『えっちな用件』がまざまざと浮かぶ。今まで何度も想像していたのでなんだか生々しい。美化されている部分も多いのだが。
 最初は痛いって聞くけどほんとに痛いのかな? どの位痛いの? リュウちゃん優しくしてくれるかな? それともあたしがリュウちゃんに優しくしなきゃ駄目?
「……ニーナ、大丈夫か?」
 リュウの言葉にニーナがはっと我に返ると、少年の幼さと青年の精悍さを備えた顔が眼前にあった。
「う、うん」
 心配そうに見つめてくる眼差しに射貫かれて、それしか応えることができない。
「……ほんとに?」
「うん」
 不安そうなリュウの言葉に、ニーナは幼子のようにただ頷くことしかできなかった。自分をのぞき込んでいた顔が離れていくのが残念でならない。
「うーん」
 うつむいたままのニーナを見つめて、リュウがうなるように言った。
「ごめんなこんな遅くに。ニーナ、具合あんまり良くないみたいだし、また今度にするよ。ほんとにごめんな」
 仕方なさそうに微笑んで、リュウがきびすを返そうとする。
 去ってしまうの?
「待って!」
 ニーナは思わず叫んでいた。その行動に、自分でも驚いていた。リュウもびっくりしてニーナを見つめていた。
「いや、あのその、あたしは全然大丈夫だから……。その、ちょっと心の準備ができていなかったっていうか……びっくり、じゃなくて驚いたっていうか……」
 ニーナは火照った顔をリュウに向けて、一生懸命喋った。全く意味の伴っていない身振り手振りが加わる。いつも理路整然と喋っているので、とても恥ずかしい。いつもリュウよりも年上を意識した言動を取っているのだが、今はひどく幼く見えてしまっているのではないだろうか?
「あ、あー、ごめんな……。こんな時間に来るもんじゃないよな……」
 後悔したようにリュウがうつむいた。何かのスイッチが入ったかのように、ニーナは落ち着きを取り戻す。多分もうこんなチャンスは二度とない。脳裏に性悪蛇体女と脳天気猫娘が暗雲のように広がる。多分ではなく、こんなチャンスは二度とない。
「言って」
 ニーナはベッドの上で、リュウに向かってにじり寄っていた。顔を真っ赤にしたまま、恥ずかしさと真剣さがない交ぜになった表情で唇を開く。
「言って、リュウちゃん」
 驚いたような表情のリュウが、ニーナを見つめた。ニーナの喉がこくりと音を立てる。一秒一秒がひどくもどかしい。
 リュウが真剣な表情になり、ゆっくりと口が開かれた。
「実は、リンプーの事なんだけど」
「……? ……え?」
 ニーナの思考は白く飛び、脳裏を猫娘の脳天気な微笑みがいっぱいに広がっていった。



 にゃー。
 頭いっぱいにリンプーの脳天気な笑いが浮かんでいた。開けっぴろげな子供の笑みだ。
 にゃーん。
 ニーナは自分からひどく遠い所でリュウの話を理解していた。頭の中はリンプーの笑みでいっぱいだ。
 とても話しづらそうなリュウの話が、ニーナの頭の中で理路整然と組み上げられていく。
 一つ、濡れて毛が固まったせいでリンプーの股間の大事な所が見えてしまい、リュウちゃんが狼狽。
 二つ、リュウちゃんが相棒に相談してみた所、別に濡れた時じゃなくても見えなくもないらしい。
 三つ、リンプーが一段飛ばしで階段を上っていく際、下から踊り場に差し掛かった時に声をかけると、横を向いて大股を開いたリンプーを下から眺められる。それが遊びのようになってしまっている。
 四つ、リンプーに何かはかせるか着せるかして股間を隠して欲しい。
 五つ、それをニーナに頼みたい。
 ばつが悪そうに、リュウはニーナの返答を待った。ニーナは焦点の合わない目で呆然とリュウを見つめたまま、別のことを考えていた。
 一つ、リュウちゃんがリンプーの非常にオープンな色気に当てられて大切なキスの事なんて忘れてしまった。恐るべしリンプー。
 二つ、このまま進展する可能性あり。リンプーがリュウちゃんを押し倒している図がまざまざと浮かぶ。リンプーの怪力で本気に押し倒されたらリュウちゃんは為す術がない。恐るべしリンプー。
 三つ、本能のままリュウちゃんを何度も押し倒すリンプー。『にゃんかおなかがぷっくりしたきたにゃー』けれどあんまり気にしない。恐るべしリンプー。
 四つ、種族的に多産なリンプー。リュウちゃんは赤ちゃんたちの世話にてんてこ舞い。げっそり痩せている。リンプーは木の上でお昼寝。恐るべしリンプー。
 五つ、そんなこと断固阻止。
「う、ふふふふふ」
 ゆっくりとうつむいたニーナの口から、ぞくりとする笑い声が漏れた。びくり、と恐ろしさのあまりリュウが無意識に後退した。
「えーと、あの、ニーナ……さん?」
 強ばった口を無理矢理動かしてリュウが言った。
「……お願い、できますでしょうか……?」
 からからの喉から言葉を絞り出す。
「やるわ」
 ニーナのはっきりとした明瞭な言葉からは、行動する、というニュアンスよりもなぜか殺害、というニュアンスが聞き取れた。
 リュウはニーナを刺激しないようにじりじりと後退した。
 ゆっくりとうつむいていたニーナの顔が上がり、二つの目がリュウを見据えた。氷よりも冷たい視線に射止められて、リュウの後退が止まる。
「……行っていいわ」
 整った彫像のような全く感情のない顔から、言葉が紡ぎ出される。
 ニーナがの変貌ぶりに度肝を抜かれ、リュウは理由を問いたかったが、そんな余裕はもう残されていなかった。
 この場を去ることを寛大にも許可されたリュウには、それしか選択肢がない。
「大変失礼いたしました」
 ぎくしゃくと礼をして、ドアノブに手をかける。
「リュウ?」
 気まぐれに死刑を命じる口調で、ニーナが口を開いた。
「今度話があるわ」
 背中を汗でびっしょりと濡らしながら、リュウがどうにか応える。
「はい、承りました」
 自分でも口がうまく回っている事が不思議でならない。口がうまく回らなかった場合の危機を、体がひしひしと感じているようだった。
「それでは、失礼いたします」
 震える手でどうにかドアを開け、リュウは振り返ってニーナに一礼した。恐ろしくて直視できなかったが、ひよこが胸元に刺繍されている黄色いパジャマを着たニーナは、女王以外の何者でもなかった。
 窓に切れ長の眼を向けて、用の済んだリュウには一片の関心も持っていない。
 物音を立てないように細心の注意を払って、リュウはドアを閉めた。
「ふふ、うふふふふ」
 ドアから漏れてきた恐ろしい何かの笑い声から逃れるかのように、リュウは自分の部屋へと逃げ込んだ。



 リンプーは一人で遊んでいた。共同体の外れにある森の手前で、じっと蝶が舞うのを見つめている。本当はリュウと遊びたかったのだが、朝から釣りに出かけているらしく不在だったのだ。
 リュウが昨日世話を焼いてくれたので今日一緒に遊びたかったのだが、リンプーはそれが自分の好意とか感謝から来ている気持ちだとよくわかっていない。
 みんな結構忙しいので、あんまり遊んで貰える機会のないリンプーは一人で遊ぶのが上手だ。逆に、仲間ができたことで一人ぼっちだった昔よりも寂しさを感じるようになっていた。
 もっとも、遊びに熱中している時はそんなことは微塵も感じない。
 少し上を向いて蝶を見つめているリンプーが、ばっ、と少しだけ跳躍した。瞬発性の高い筋肉は予備動作を感じさせない。空中でくるりと回転する。
 と、と降りたったリンプーの唇には、蝶が羽を挟まれてじたばたともがいている。
 唇に獲物のあがきを感じて、眼を細め、捕食者の喜びに体を震わせるリンプー。羽だけを正確に唇で挟むのは結構難しい。
 こそばゆいような蝶のあがきに、生命の輝きとそれを握りしめている自分に喜びを感じて、リンプーはご満悦の表情でにんまりと笑う。唇に力を入れないように気をつけるのを忘れない。
 ぱ、と唇を離すと蝶が逃げるように飛んでいった。リンプーはまたこの蝶で遊ぼうかと思ったが、みんなと一緒で蝶も忙しいのかも知れない。
「ばいにゃ」
 鱗粉の着いた口で蝶に言ってみる。特に返事はないのだが、リンプーは満足してあたりを見渡した。ぽかぽかした陽気に照らされて、いつもより風景が生き生きとしているように見える。
「リュウちゃんどこに行ったのかにゃあ……」
 不意に寂しさを感じて、ぽつりと呟いてみる。海岸までひとっ走りしたら会えるかも知れない。釣りは好きではないが、リュウが話し相手をしてくれるし、バケツの中で泳いでいる魚を眺めているのもいい。
 海岸のどこら辺でリュウが釣りをしているのか考えていたら、リンプーは段々眠くなってきた。そのままころりと木陰に寝ころぶ。さわさわと微風に揺れる外れの音が心地いい。
 うとうとし始めたリンプーの鼻腔に、いいにおいが届いた。紛れもないスルメのにおいだ。発達した嗅覚は好物のにおいを逃さない。
「んにゃー」
 半分夢うつつのまま、リンプーはむっくりと起き上がった。眼も半分閉じたまま、においの元へと向かう。においが強くなるにつれ、リンプーの眼が開き、思考が冴えていく。
 共同体の建物の陰から、きょろきょろあたりを見渡しているニーナが出てきた。手にスルメを持っている。
 だっ、とすばらしい瞬発力を見せつけてリンプーがニーナに迫った。気づいたニーナがリンプーのあまりのスピードに後ずさる。
 減速せずにそのまま突っ込んできたリンプーに、ニーナの顔が青ざめる。飛びかかられたらただでは済まない。
「にゃ!」
 リンプーはニーナの脇をすり抜けて跳躍し、その背後の壁を蹴って空中で一回転して降り立った。丁度目の前に呆然としたニーナの顔がある。
「ニーナ、スルメちょーだい」
 それは自分の所有物だと言わんばかりに、にっこりと笑って両手を差し出す。
「……あげなーい」
 はっと我を取り戻したニーナが、前屈みになりリンプーを下からのぞき込むようにして言う。スルメは後ろで組んだ両手でしっかり掴んでいる。一瞬の隙をついて奪われかねない。
「にゃー……」
 リンプーはがっくりと肩を落とした。ちらりとニーナを見るが、少し意地悪っぽい笑みを浮かべたままだ。
「にゃー!」
 リンプーは小さく叫ぶと眉を寄せ、唇をとがらせた。
「ニーナのいぢわるー」
 少し腹が立ってニーナをにらみ付ける。その眼前にスルメの足が一本差し出された。すかさず、はむ、とリンプーの口がそれをくわえる。
「ニーナ大好きー」
 両手でスルメの足を大事そうに抱えて、リンプーはもむもむと顎を動かして味を楽しむのに熱中している。
 ニーナは自分の判断が正しかったことを確信した。リンプーの別の好物だったら、あっという間に平らげられていただろう。
「ねー、リンプーちゃん」
 かがみ込んで、にっこりと微笑むニーナ。
「もっとスルメ欲しくなあい?」
 微笑みの中に一瞬暗い陰が射したのだが、スルメに夢中のリンプーは気づかなかった。
「はいにゃ」
 ニーナの方をきちんと見て、とても素直に頷くリンプー。
「じゃあ、ちょっと私の部屋に来てくれるかな? お願いしたいことがあるのね」
 にこにことかりそめの慈愛に満ちた表情でニーナが言う。素直にこくりと頷くリンプー。
 二人で寮に向かって歩き出す。ニーナはちらりとリンプーのヒップを見た。体毛に覆われているが、小さく引き締まっているうえに、周りの筋肉が発達しているのでその丸みと柔らかさが強調されている。
 リュウちゃんこういうのが好きなのかしら……。
 ニーナは自分のお尻の大きさを考えた。最近ちょっと気になっている。胸も大きくなってきているので、気にしすぎだとは思っているのだが。
「どうしたのかにゃ」
 いつの間にかリンプーのお尻を見つめていたらしく、不思議そうな声がかけられた。
 ニーナは慌てて口を開いた。
「えっと、その、そうだ、なんでリンプーちゃん『にゃ』とか言うようになったの?」
 あからさまに関係のない話だったが、リンプーは特に気にならなかったようだ。
「なんかね、ディースがね、リンプーこうした方がモテモテだってね、ゆってたにゃ」
 半分スルメに気を取られたままで、リンプーが応える。モテモテの意味がよくわかっていない上、実際の理由は鳴き声に似た発音で喋りやすいからなのだが、そこまで質問したり説明したりする所まで頭が回らない。
 スルメがもうそろそろなくなりそうだったので、ニーナはもう一本スルメの足をリンプーに渡した。
 口を動かすのに夢中で、リンプーはうつむいたままただそれを受け取って食べ続ける。
 そのため、スルメを差し出していた時に一瞬見えた、ニーナの冷たく酷薄な眼差しに気づかなかった。
 どんな手を使ってもモテモテになりたい強欲なリンプーちゃん……。あなたにはかぼちゃパンツがお似合いだわ……!
 冷え冷えとした笑みを浮かべるニーナの脇で、リンプーは無邪気にスルメを噛み続けていた。



 海から共同体に帰るリュウの肩は重かった。一匹も釣れなかったからではない。一匹も釣れなかったのは、針に餌を付けずにずーっと垂らしていたからだ。何時間も頭を白紙にして、ただ海を見ていた。
 できることなら夜まで海を眺めていたかったが、夕食当番なのでそうもいかない。弁当に持って行った簡素な食事をのろのろと済ませると、帰路についたのだった。
 釣り道具を物置に片付けて寮に入ると、どうも騒がしい。ひく、とリュウの片頬がけいれんしたように上がった。苦笑いしたつもりだったがうまくいかない。
 ニーナの部屋の前に人垣ができているのを見て、リュウはがっくりと肩を落とした。男性陣がドアから漏れる声を些細な一言でも聞き逃すまいと傾聴している。
 リュウの予想通り、ニーナがリンプーに何かはかせようとして苦戦しているらしい。ニーナの王侯貴族的なカリスマ性は平民のリュウに通用したが、蛮族みたいなリンプーには通用しなかったのだろう。
「リンプーちゃん、はいた中で気に入ったのないの……?」
 げっそりと疲れたニーナの声。
「かぼちゃぱんつはもふもふして面白いけど動きづらいからやー」
 ニーナの分までカバーするように元気いっぱいのリンプーの声。
 しん、と息を殺して傾聴している男性陣。リュウは情けなくなったが、昨日相談に乗って貰った相棒のボッシュが居なくて安心した。単に狩りに行っているだけかも知れないが。
「うーん、動きやすいっていうとこういうのになるんだけど……」
「それはおまたにきゅってなるからやー」
「じゃあ、こんなのは?」
「それもお股にきゅってなるよー。ねー、どうしてもはかなきゃ駄目なのー?」
「駄目っ!」
 ニーナの怒気を含んだ一喝が、傾聴していた男性陣の鼓膜をびりびりと震わせた。
「むにゃー……」
 あまり元気のない抗議の声を上げるリンプー。このやりとりは幾度も繰り返されてきたのだろう。
「……リンプーちゃん、ブラしてるでしょ? そのデザインと合うのも作ったから、しばらくそれ付けてみない? きゅってなるのもそのうち慣れると思うし、ね?」
 先ほどの一喝とは打って変わった、優しげな声音でニーナが言う。
「……えーとね」
 しばし考え込んだ後に、リンプーが口を開いた。
「なんかね、リンプー、おっぱいの先がむずむずしたり、痛かったりする時があって、それでブラしてるの。ニーナはおっぱいの先痛くなったりしない?」
「……え……っ」
 リュウにはドアの向こうで絶句し、赤面してうつむくニーナの姿が見えるようだった。
「なんかおっぱいも張って痛い感じもするし……びょうきなのかなあ……」
 しょんぼりしたリンプーの言葉に、聴衆がぐぐっと引きつけられた。いつもあっけらかんとした少年のようなリンプーが、怯えた様子でしんなりと喋る様には、少女としての弱さがある。
「ち、違うのよリンプーちゃん。それは病気じゃないのよ」
 少し慌てた感じで、ニーナがまくし立てた。
「え、違うの? なんで?」
 きょとんとしたような、不思議そうなリンプーの声。
「女の子はね、えっとね、子供を産むために体ができてくると、あのね、その、おっぱいとか、お尻とかが大きくなってくるの。それで、あの、その、その時に痛いような感じがしたりするのよ。心配することないのよ」
 しどろもどろに説明するニーナ。気がつけばリュウも傾聴する男性陣に加わっていた。これから期待できそうだ。
「ニーナもおっぱい痛くなる?」
 リンプーのほっとした明るい声。リュウは全身全霊で次の言葉を待った。
「あの……その……」
 ニーナはしどろもどろになって答えられないようだ。リュウは辛抱強く待った。
「ディースはもう女の子じゃないから、お乳出るのかなあ」
 話を変えるなリンプー、もうちょっとニーナに突っ込め!
 というリュウの心の叫びはリンプーに届かなかったらしい。
「お乳はね、赤ちゃんができたら出るのよ」
 明らかにほっとしたニーナの声。リュウは強く唇を噛んだ。
「……赤ちゃんって、どうやったらできるの?」
 純粋に不思議そうな声で、リンプーが聞いた。いつもの半分きょとんとしたような表情で聞いているのだろう。リュウは心の中で勝利を叫んだ。
「え、えっ、あの、そのね、男の人と、女の人が、ね」
 リュウは全身全霊でニーナの言葉に聞き入った。恥ずかしさのあまり声が上ずっている。いつも理路整然と喋るので、もじもじ喋っているのが可愛らしい。胸を高鳴らせながら続きを待つ。
「……誰がもう女の子じゃないって?」
 怒気を含んでもなお艶めかしい声が、廊下に凛と響いた。



 挑戦的に見下ろす切れ長の眼の下で、挑戦的なバストがたゆんと揺れた。
 ディースが下半身の蛇体で上半身を持ち上げ、あわれな犠牲者たちを睥睨していた。ドアを取り囲んでいた男性陣が、蜘蛛の子を散らすようにそそくさと自分の部屋へと逃げ込んでいく。
 慌てて周りに頭を巡らすリュウを残して、ドアに鍵をかける音が立て続けに響いた。
 しん、と静まりかえった廊下に、見上げるリュウと見下ろすディースが残される。
「……誰が、もう、女の子じゃないって?」
 獲物を遊びでいたぶるような喜びを口の端に乗せて、ディースが言う。
 リーダーの孤独さを思い知らされながら、リュウは口を開いた。
「ディースさんが、成熟した女性だ、という話です」
 自分でもびっくりするくらい平坦な口調で答える。
「……ふうん?」
 つまらなさそうに納得した様子で、ディースは側らのドアを見た。
「……男の人と、女の人が、どうするにょ?」
「ちょ、ちょっと待ってねリンプーちゃん」
 ドアからいつも通りのリンプーの声と、焦ったニーナの小声が漏れてくる。
 にんまり、とディースの口の端が持ち上がった。持ち上げていた上半身をすとんと降ろす。リュウが慌てて口を開いた。
「あ、ちょっと今取り込み中で」
「リンプーちゃーん。ちょっと開けてー」
 ドアをノックしながら、楽しいいたずらを思いついた、艶然とした笑みをちらりとリュウに向ける。
「はいにゃ」
「だっだめ」
 室内の二人の言葉が交錯したあと、ドアが開かれた。ドアを開けたリンプーの腰にはニーナがしがみついている。リンプーを止めるには体重も腕力も足りなかったようだ。
「……くすん」
 細身ながらがっしりとしたリンプーの腰にしがみついたまま、ニーナは涙目になった。
「リュウちゃんったら酷いのよぉ? 女の子の部屋を盗み聞きしてたの」
 ディースが長いまつげを伏せ、わざとらしい艶めかしい声で、困ったように言う。
 真っ赤になって絶句したニーナをそのまますたすたと引きずって、リンプーが廊下をのぞき込んだ。
「いないにょ」
「あら?」
 ディースも廊下を見渡すが、どこにも居ない。足音もドアを閉める音もしなかったのだが。近くの部屋はみんなドアに鍵がかけられているので、少し離れた自分の部屋に逃げ込んだとしたら、足音を全く立てずに全力で走っていった事になる。
「変ねえ……」
 ディースがいぶかしんで小首をかしげる。ニーナはほっと吐息をついた。
「……楽しそうな事してるわねえ」
 ディースがニーナをにんまりと笑って見下ろした。両手の人差し指をショーツの左右に差し込んで引っ張り、ニーナの眼前にかざす。
 部屋はリンプーが脱ぎ散らかしたショーツでいっぱいだ。
 くい、くい、とディースの細い指でショーツが伸び縮みさせられる。
「えっと、あ、あの、違うんです」
 相変わらずリンプーの腰にしがみついたまま、ニーナは顔を耳まで真っ赤に染めた。



 リュウは自分の身体能力の高さに驚いていた。いわゆる人間種族よりは遙かに高い身体能力を持っているのだが、それをここまで発揮したことはなかった。
 ドアが開く瞬間、ディースの注意がドアに向き、ドアがきしんだ音を立てた瞬間。
 リュウはすかさず真後ろに跳躍していた。床板がきしむ音はドアの音と紛れた。体は仰向けになってドアと対面している窓に向かい、その窓の上部のへりを掴んで体を外に投げ出す勢いを更に加える。膝を丸めるようにして脚が窓の縁を越えた瞬間、左手を離す。残った右手を軸にして体がくるりと回り、屋根へと両手両足を使って着地していた。
 着地の音も両手両足を使いショックを分散させたので、飛び出してきた速度からは考えられないほど小さかった。
 リュウは体をコントロールするのに張り詰めていた緊張をほぐし、ほっと息を吐いた。
 良かった。ニーナにばれなくて、本当に良かった。
 窓から漏れる声を聞きながら、両手両足で体重をうまく分散させて屋根の上を進む。煉瓦造りの建物だが、完璧に音がしないでもない。
 素早く昆虫を思わせる動きで屋根を横断すると、今度は屋根からニーナの部屋の窓へと向かう。煉瓦のほんの少しの凹凸に指先を、脚のつま先をかけて慎重に降りる。体中から疲れと緊張で汗が噴き出てくる。
 何かあった時には、ニーナを助けなければいけない。
 窓から中を覗くよりもその場にきちんと居た方がよっぽどニーナのためになるのだが、そこにはあえて気づかない。
 窓の縁の下部分に指をかけて体を持ち上げ、リュウはゆっくりと室内を視界に入れていく。ニーナのためなのでこんな苦労も仕方がない。
「……あっ……だめ……ぁうっ……」
 煩悶する悩ましい声に、リュウはのぞきが発覚する危険性も忘れて身を乗り出した。
 リンプーが後ろからディースの胸を揉みしだいていた。ボリュームのある乳房が手荒く揉み潰されて形を変える。指の間から柔らかな肉が押し出される。
 下着を着けているか怪しい薄い布地越しに、ディースの胸の先端が尖るのがわかった。
「だ、だめよリンプーちゃん、めっ」
 荒い息を弾ませてディースが言うが、リンプーの腕にかけている手には別に力はこもっていない。リンプーを見る瞳は催促するように熱く潤んでいた。
「ごめんにゃ」
 すんなりとディースの胸から手を離すリンプー。ディースがリンプーを見つめる目つきは、安堵と非難の入り交じったものだった。強く揉みしだかれた胸元を抱えて布地を整え、ディースは問うた。
「どうしていきなり胸揉んだりしたの……?」
 口調が怪しく熱を帯びていて艶めかしい。リュウは窓外でごくりと生唾を飲んだ。ニーナはただ顔を真っ赤にして突然の成り行きを見守っている。
「ディースおっぱい大きいから、お乳出るのかなあって」
 室内を支配している艶めかしい雰囲気を無視するように、あっけらかんと言うリンプー。ディースは咎めているにしては艶めかしすぎる視線を横目で送る。
「お乳は赤ちゃんができてから出るのよ……?」
「わかったにゃ」
 こくりと素直に頷くリンプー。はぁ、とディースは熱く湿った吐息をついて、艶めかしさを抑え込む。
「人のおっぱいを揉む時は、ちゃんと了解を得ないと駄目よ」
「はいにゃ」
 痴態を見せたことを誤魔化すように真面目ぶって言うディースに、リンプーが素直に応える。ディースの言葉には何かしらの期待が籠もっていることが感じられた。
 ぴ、とリンプーに突きつけていたディースの人差し指の先で、ショーツは絡まってゆらゆらと揺れていた。
「そういえば、あんたたち何やってたの」
 リンプーの鼻先で、ショーツをぷらぷらと揺らすディース。リンプーの眼がショーツを追って、体がむずむずと動く。
 ディースに呆れたような視線を向けられて、ニーナが慌てて口を開く。
「あ、あのですね」
「にゃ!」
 揺れるショーツに小さく飛びかかったリンプーの手は空を切った。ディースはひょい、と頭の上に上げたショーツをそのままニーナに投げる。
「にゃっ!」
 ショーツを追ってニーナに飛びかかるリンプー。口にショーツをくわえたリンプーが、ニーナをベッドに押し倒した。むふー、と満足げな鼻息をかけられて、ニーナの視界がじんわりと歪んだ。
「……あっ! ごめんにゃ」
 口からぽろりとショーツをこぼして、我に返ったリンプーが謝った。慌てて立ち上がる。
「……うん……」
 ベッドの上で上体を起こすニーナ。涙ぐんだままうつむいた弱々しい姿に、リュウはどきりとした。ニーナの少女の部分を強く意識させられて、動悸がなかなか収まらない。いつも自分の前では見せない弱い姿に、リュウは強い庇護欲に駆られた。
 が、助けに行こうにも窓には鍵がかかっていたので、そのまま見守ることにする。
「……リンプーは何してたの?」
 困ったように頬を掻きながら、ディースが言った。ニーナも気を取り直したように立ち上がる。
「ニーナがね、リンプーえっちなんだって」
「何が」
 子供のようなまとまりのないリンプーの発言の『えっち』という単語に過敏に反応して、すかさず言い放つディース。リンプーを見る目は否定の目つきだ。
「えっとね、リンプーのお股ね、たまに大事な所が見えちゃうんだって。それがえっちなんだって。それでね、リンプーは気にしないんだけど、みんな気にするから、なんかはこうね、ってニーナが言うのね」
 自分なりにうまく説明できて満足げなリンプーの肩を、ディースががっしりと掴んだ。
「リンプーちゃん、ちゃんと何かはきましょうね?」
 にっこりと慈母のような笑みを浮かべて言うディース。ひたすら優しい声音は『女』という性そのものに対する執念のようなものが隠し切れていない。
 リンプーの全身の毛が、ディースの手が置かれた肩からさざ波のように逆立っていく。
「はいにゃ」
 リンプーはすかさずこくこくと頷いた。瞳孔が開いた眼は聖母の笑みを浮かべた悪魔を見つめていた。



「やー」「やにゃ」「や!」
 再び色々なショーツを試されるリンプーだが、前と反応は変わらない。どこかで譲歩しようという気も全くないようだ。
 リュウは代わる代わるショーツをはき替えるリンプーを見ながら思った。正確にはショーツに隠されたそのお尻や、布地に隠されたお尻の割れ目などを見ながら思った。
 なんだか逆にいやらしいな……。
 目の前で体を屈めてショーツをはいたり脱いだり、食い込みを直したり。眼福だなあ、と思う反面、予想してなかった事態に少し慌てる。
 「やん」
 リンプーが困ったような声を上げて、お尻に食い込んだショーツの布地を引っ張る。リンプーの声が心なしか妙に可愛らしく聞こえる。なぜかショーツは角度の急なきわどい形の物が多かった。
 ……けどまあ、何もはいていないよりもいいか。
 リュウが自分を納得させるのに一秒もかからなかった。
「あんたもうこれにしなさいこれにほらはい」
 ずい、とディースが白いかぼちゃパンツを差し出す。別候補はないらしい。
「はくのやー」
 ぷう、と頬をふくらませて両手をぱたぱた振り、リンプーが抗議する。ディースの瞳孔がきゅっと収縮した。
「うにゃー」
 肩を落として、リンプーは救いを求めるようにニーナを見た。ニーナが手に持ったショーツを広げてみせる。リンプーのブラジャーと合わせたデザインで、革や小さなメタルプレートが使われている。角度も急ではない。
「これだったらあんまりお尻に食い込まないだろうし、ブラジャーとも合うんじゃないかしら? 自然な感じにまとまると思うんだけど」
 ちょっと疲れた微笑みを浮かべて言うニーナを、リンプーは上目遣いにじっと窺う。
 リュウは下着と水着の違いを悟った。下だけ下着をはいているとズボンなどをはき忘れている感じだが、そのショーツだったらなんの違和感もない。水着というには多少ごついつくりだが、下着然としたショーツをはくよりもいやらしい感じがしない。
「うにゃー……」
 どうしても駄目? と眼で訴えかけるリンプーに、どうしても駄目、とニーナが疲れた笑みで返し続ける。攻防はしばらく続いていた。
「……しっかし、角度が急なのが結構多いわねえ」
 攻防を見るのに飽きたディースが、ぽつりと独りごちた。かぼちゃパンツを放り投げて、落ちていたショーツを拾う。
「こういう過激なのはリンプーに合わないんじゃないの?」
 びくり、と疲れた微笑みを浮かべていたニーナの体がすくんだ。リンプーもディースもそれを見逃さなかった。
「リンプー、かぼちゃパンツも今ニーナが持ってるのもやだってゆったのね」
 特に目配せもなく一瞬のうちにチームワークが確立された。
「ほうほう」
 リンプーの発言に耳を傾けながら、ディースがにんまりとした笑みを浮かべて前に進み出る。
「そしたら、ニーナがタンスから出してきたのね」
「ふむふむ」
 妙に無表情なリンプーと、悦びを隠せないディースがニーナに迫った。
「え、えっと、だって最初リンプーちゃん『や』ってしか言ってくれないから、どんな所が嫌なのかもわからないし、その、あの」
「あら、いやだわ」
 ニーナの発言を遮り、傲然とからかう口調でディースが言い放つ。
「お姫様ったらこーんなに過激でいやらしい下着を身につけているの~?」
「い、いや、あの、私が格闘する時にですね、体重が軽いので力が逃げないように軸足は地面に接していなくちゃいけないし、脚が開くので、その、ドレスのスリットが深くてどうしても」
 顔を赤くしてしどろもどろで弁解するニーナを、リュウは感心して眺めていた。スリットが深いのは気になっていたが、スリット部分のベルトで隠れているものだと思っていたし、格闘の時にはそこまで観察している暇もない。そういう秘密があるとは思わなかった。
「過激でいやらしい下着をいつも着けているの? 違うの?」
 更にディースが迫る。ニーナは弁解を続けた。
「き、機能としてそうなってしまっているので仕方がないんです」
「ふうん?」
 顔をのぞき込むように迫っていたディースの顔が離れ、ニーナはほっと胸をなで下ろした。顔を上げると、何かがおかしい。
「機能って、実際にはいている時にしかわからないわよね? リンプー?」
「はいにゃ!」
 いつの間にか死角に回っていたリンプーが、楽しげなかけ声と共に後ろからニーナを羽交い締めにする。
「きゃっ!?」
 慌てていましめから逃れようとするが、かがみ込んだリンプーが片手で両手首を、もう片手で両足首を捕まえていて身動きも取れない。足首はリンプーの指先が回っている訳ではないので抜けても良さそうな物なのだが、腕力がそれを許さない。
 リュウは思いもよらなかったわけでもない展開に、思わず顔を窓に近づける。気づかれそうになった瞬間に隠れられないほど顔を出しているが、そんなことはもう考えていない。
「さてさて、今はいてるショーツはどんな機能を発揮しているのかしら?」
「やっやめてっ」
 嗜虐心に彩られた楽しそうなディースの声に、ニーナが慌てて体全体を激しく動かした。
「むにゃっ」
 ちょっと大きめのお尻にむぎゅっと顔を押されて、リンプーがたじろぐ。しかしそれでも戒めは解けなかった。
 窓から丁度真横に見える角度になっただけだ。
 リュウは心の中でガッツポーズをとった。状況を見守るのに一番いいアングルだ。
 助けに入る気がないわけではないんだけど、窓から入れるわけでもないし、二人が本気でニーナに害を与えるというわけでもないしなあ。
 自分が今部屋の中を覗いているそもそもの理由を失いつつ、リュウは成り行きに生唾を飲み込んだ。
「だっだめですっ」
 涙ぐんで懇願するニーナの声を添加剤に、ディースの嗜虐心が燃え上がる。長い舌がぺろりと紅い唇を濡らした。
 ニーナのドレスに、長い指が伸ばされる。スリットに設けられたベルトが、一つ一つ焦らすように外されていく。
 事実リュウも焦れていた。
 ベルトが全部垂れ下がると、深いスリットがあらわになった。すらりとした太ももからつながる腰があらわになるが、ショーツは見えない。
「あらあら、ずいぶん急な角度のショーツをはいていらっしゃるのね、お姫様?」
 ニーナは唇を噛んでうつむき、頬を染めて身じろぎもしない。ディースが飽きるまで余計なことをしない方がいい、と経験上知っているのだ。
 蛇のようにしつこいのがディースの性格だが。
「じゃ、お姫様のショーツっていうのを見せて貰いましょうかね?」
 ディースが左手でドレスの前面を持ち上げた。
「やっ……」
 懇願の声はディースの嗜虐心を募らせるだけだと気づき、ニーナは悔しげに唇を閉じた。ぎゅっと内股に力を込める。
「あらあらあら! ニーナちゃんが黒なんて意外だわ~」
 嘲笑するようなディースの声に、ニーナは頬の染まった顔を横に向けた。
 窓の方に顔が向いたのでリュウはどきりとしたが、うつむいているので気づかれなかった。
 それにしても、とリュウはニーナのショーツを注視する。急な角度に眼を奪われるが、股の部分の布地も大きめにとってあるようだし、いやらしくデザインされた下着ではないようだ。へその下の布地の部分に黄色の糸でひよこが刺繍されていて、子供っぽさを付加させている。
 ニーナの下着が黒だというのはリュウも意外だったが、散らばっているショーツを見ると白の物はないので、汚れが目立たないとかそういった理由だろう。
 しかし、リュウにとってはデザインがいやらしかろうが子供っぽかろうがはいている対象が問題なので、すぐに頭に血が昇った。ニーナの白い肌とショーツの黒のコントラストが眩しい。下着姿のニーナの、濡れたように光る黒い翼、黒い下着、艶めかしく光る白い肌。リュウは頭がくらくらした。
「じゃあ、ぬぎぬぎしてみましょ~?」
 愉しげにまた舌なめずりすると、ディースの指先がショーツにかけられた。
「か、関係ないじゃないですかっ!」
 驚いたニーナがディースをにらみ付けて反駁する。頬が染まったままなので、怒っている顔も何か可愛らしい。
「関係なくないも~ん。ニーナちゃんのあそこがどうなっていて、こういうショーツがぴったりしているかっていう調査だもの~」
 ディースは耳元に悲痛な反駁の声を浴びせかけられても全く平気だ。
「そうだにょー」
 ニーナのお尻に顔の側面を押しつけるようにして固定し、リンプーが子供のような笑みで相づちを打つ。リンプーにとってこれは単純に遊びでしかない。
 リュウは額を窓ガラスに押しつけてニーナの下半身に視線を注いだ。共同体のリーダーもただ、今この瞬間は一個人のオトコノコにしか過ぎない。
 ディースの長い爪を引っかけられて、ショーツがゆっくりと下げられていく。ニーナが抵抗して精一杯体をくねらせているのがかえって艶めかしい。
 布地の伸縮力とニーナの体の動きで下げた分が少し戻ったりと、なかなかショーツは下がっていかない。
「やっ、やめてください! ディースさん! やめてくださいっ! 怒りますよ!」
 顔を真っ赤に染めて、体をくねらせて必死に抵抗するニーナを、ディースもリンプーも意に介さない。ずっと続く制止の声も耳に届いていないらしい。注目しているのはリュウだけだ。リュウの前では見せないニーナの姿が、新鮮で驚かされる。
「ニーナちゃんもまだまだ子供なのねえ~」
 ディースの言葉に、リュウは視線をニーナの下腹部に戻した。もうかなりずり降ろされたショーツの上の部分は、きれいな白い肌をさらしている。リュウは違和感を感じた。もうそろそろ大事な部分が見えそうなくらいショーツは下げられているのだが、ショーツの上の部分は白い肌だ。
 尖った指先が、更にもうちょっと、少しだけショーツを下げた。
「あら」
 ディースの声には驚きと嘲笑が含まれていた。リュウの眼もディースと同じものを捉える。髪の毛と同じきれいな金色の毛が、ずらされたショーツの上端からちらりと覗いていた。
「ほんとに子供って訳でもなかったわねえ~? お姉さん安心したわ~」
 くすくすと笑い声を交えてディースが言った。直後、異変に気づく。
「……あら?」
 体を動かせるだけ動かして抵抗し、大声で制止を叫んでいたニーナが、活動を停止していた。リュウはニーナの異変に気づかずに、汗ばんだ白い下腹部を、ちらりと覗いた縮れた金髪を凝視していた。
 ゆっくりと、力尽きたようにうなだれていたニーナの顔が上がった。ディースの口元が笑いを作ろうとして失敗し、片頬を引きつらせた。
 涙ぐんだニーナの怨念の籠もった恨みがましい眼が、ディースを捉える。
「えっと、その」
 ディースが迫力に押されて後ずさる。リンプーがようやく異変に気づいたが、ニーナを拘束したままなのでよくわかっていない。
 すうっ、とニーナが息を吸い込んだ。ディースの額に脂汗が浮かぶ。
「ばかーっ!」
 ニーナの叫び声が、寮を物理的に揺るがした。



 揺れの収まった廊下には、蝶番の部分から吹き飛んだドアが転がっている。真ん中でくの字に折れたドアは、ニーナの部屋のものだ。
「やりすぎちゃったわねえ」
 ふう、と反省の色のない疲れたため息をついて、ドアのあった部分からディースが逃げるようにするすると出た。少し乱れた髪をなおしながら言う。
「直しておいてね、リンプー」
 振り向きもせずにそのままそそくさと自室へと去るディースに続いて、リンプーが廊下に出てきた。
 ショックで瞳孔が見開かれて、人形のように無表情だ。体の前面の毛がぺったりと体に張り付いている。廊下に出てきたまま、動かない。
「……あ、リュウちゃん」
 しばらく経ってから、廊下の端に立つリュウに気づいてリンプーが声をかけた。
「ん」
 リュウは転がっていたドアを持って、ニーナの部屋の入り口に立てかけた。目隠しくらいにはなるだろう。
 ぐったりとベッドにもたれかかって死んだように眠っているニーナが目に入った。ドレスのスリットから半分脱げかかったようなショーツが見える。なるべく中が見えないように壊れたドアの位置を調整した。
 世界に満ちている魔力を魔術という技術でコントロールして魔法にするのだが、ニーナは体内の魔力を激した感情に任せて一気に放出してしまい、魔力の衝撃波となって寮を揺るがせたのだろう。
 ディースは本能的に障壁を張ったのか髪の毛の乱れで済んだが、直撃したリンプーは体の前面の毛がぺったりと張り付いていてなんだか面白くなっている。結構な勢いで吹き飛ばされているはずなのだが、本人はあんまり気にしていないようだ。
「あのね、ディースが直しといてねってゆってたにゃ」
「ん」
 衝撃波が一番強く抜けていったのがドアだったらしく、直すのに一番手間がかかるのはドアのようだ。室内は散らかっていたが、壊れた物はなかったようだった。
 リンプーが、じーっと驚いた顔で興味津々にリュウの顔を見つめていた。黙ってそれを見つめ返すリュウ。
「……ねえリュウちゃん、なんでお顔にガラスがいっぱい刺さってるの?」
 別に怪我を心配するでも無し、不思議そうにリンプーが聞いた。
 衝撃波が二番目に強く抜けていったのは窓だ。リュウは顔面をガラスの破片でずたずたにされて落下し、地面で背中を打って激痛に身もだえする暇もなく、玄関からすたすたと入って階段を上がってきたのだった。我ながら痛みに打ち勝った意志の強さに感嘆する。
「んん」
 リンプー、と言おうとしてリュウは顎がうまく動かない事に気がついた。手を当てると頬に硬い物が当たった。刺さっているガラスの破片を指でつまむ。
 外側に見えていた小さな部分からは想像もつかない、長く細いガラスの破片が肉を削り取る湿った弾力のある音と共に抜けていく。リュウは全部抜けたガラスの破片を眼前にかざした。小さなダガーの刃のようだ。
 ぼたびたべた、と水にしては粘着質な音がしてリュウは足下を見た。しばらく同じ所に立っていたので、足下に水たまりならぬ血だまりができている。
「リンプー」
 まだ少し喋りづらかったが、無視してリュウは口を開いた。さっきのガラス片が上顎と下顎を貫通していたらしい。今自分の顔がどうなっているのかは想像したくない。
「ガラスがいっぱい刺さっているにょはなんで?」
 リンプーが再び聞いた。
「リンプー、ちょっとこっち来なさい」
「やにゃ」
 ぷるぷると首を振るリンプーの声には、かすかな怯えがあった。
 ば、と格闘仕込みの予備動作のない動きでリンプーの首を脇に抱える。リンプーはびくりと反応したが逃げられなかった。
「リンプー、今度から下に何かはきなさい」
「……やにゃ」
 風のない日の湖面のように穏やかなリュウの声に、首を抱えられたままリンプーが答える。怒ってむすっとした顔をリュウに向け、慌てて下を向こうとしたのをリュウは見逃さなかった。怯えがその顔に走ったのだ。
 首をがっちりと抱えられ、顔を半分リュウの方に向けさせられたまま、静かな話し合いは続いた。
「リンプー、今度から下に何かはきなさい」
「むにゃ~」
 リンプーは手足を無駄にばたばた動かして戒めから逃れようとしている。本気なら腕力差で逃げ出せるのだが、混乱していてうまくいかないらしい。ぼたびたべた、とリンプーの顔に鮮血が降りかかる。
「リンプー、今度から下に何かはきなさい」
 ぶつり、という音がして頬の皮膚を何かが突き破った感覚があった。痛みはなく、ただ、熱病にかかったように顔が熱い。おそろしく痛むのは受け身も取れなかった背中と腰だ。
 リンプーの眼が恐怖に見開かれた。瞳孔が限界まで開いてリュウの顔面を映した。
「ぎにゃー!」
 さっきよりも激しく鮮血が降り注ぎ、リンプーは悲鳴を上げた。
「りんぷ、こんろかあ、しらになりかあいなはい」
 また口に何か引っかかってうまく動かなくなったが、リンプーを逃がすわけにはいかないのでそのまま喋る。口を動かす度にぶつぶつとのこぎりで肉を轢くような音がする。
「ごめんにゃさいごめんにゃさい! はくにゃはくにゃ!」
 顔を降りかかる鮮血で染められて、リンプーは半泣きで答える。眼は恐ろしさのあまり閉じられないようだ。
 リュウは念を押そうとして口を動かしたが、声よりも先に血の固まりがリンプーに降り注がれた。
「はく! はくにゃあ!」
 悲鳴のように答えるリンプーに納得して、リュウは戒めを解いた。
「うにゃああああん」
 思い切り泣きながらリンプーが階段へと走っていった。顔が血まみれなので一階の洗面所へ行くのだろう。
 顔から血が沢山かかってしまって悪かったとは思ったが、事故なのでしょうがない。
 どうにか一つの用件は片付いた、とリュウは安心した。その他の用件が凄まじい数で増えているが、事故なのでしょうがない。自分で招いた災難だとも思ったが、いい思いもしたのでしょうがない。釣り合うかどうかは微妙な所だが。
 足下でべちゃ、と音がしてリュウは下を向いた。少し足を動かしただけで血だまりが音を立てたらしい。血だまりは円く溜まる限界を超えて、板目に沿って廊下を進んでいる。
 滴った鮮血が作る波紋の合間に、血だまりに写った自分の顔が見えた。
 リュウは失神した。



 背部肋骨単純骨折三カ所、腰骨剥離骨折一カ所、顔面多発裂傷のリュウを助けてくれたのは相棒のボッシュだった。寮にいたメンバーは全員自室に逃げ込んでいたので、リュウはじっくりと出血することができた。発見された時、血だまりは廊下の幅になっていたという。
「猟から帰ってきたらお前が殺されていてびっくりしたぜ」
 失神から目ざめたリュウに、ボッシュは愛嬌のある顔を真剣に引き締めて言った。耳と頬の垂れた犬顔なので、どうしても愛嬌がある。
 生きていたわけだが。顔面の傷があまりにもむごたらしかったので、怨恨で殺されたのだと思ったらしい。
 リュウは自分の顔の傷を見ていないので、よくわからない。どこかで見たような気もするのだが、思い出せない。見ようとした覚えはないので、見ていないとは思うのだが。
 突き刺さっていた全部のガラス片を丁寧に抜いて、治癒魔法をかけてくれたボッシュにはひたすら感謝してる。
 どうして多数のガラス片が顔面に突き刺さっていたのかも聞かないし。先に気がついたニーナにも、怪我の内容を詳しく説明しなかったそうだし。本当にありがとうボッシュ。
 面倒ごとに巻き込まれないようにしているだけかも知れないが。
 翌日、治癒魔法で見た目は治っているのだが、顔面だし神経に障りが出るとまずい、ということで顔を動かさないように包帯で固定されたリュウと、なぜか少し離れているニーナの二人がリンプーの部屋を訪問した。
 顔だけミイラ男でしかも呼吸が籠もり、アンデッド系モンスターのようになっているリュウを見て、リンプーは怯えた。リュウの怪我をした顔を思い出したのかも知れない。
「リュウちゃんとお話ししたい? リンプーちゃん」
 慈母の笑みで問うニーナの後ろで、リュウは籠もった荒い吐息をついている。顎の損傷が酷かったらしく開けられないようにされているので、鼻で息をするしかないのだが包帯がずれて鼻をふさぐ形になっていて苦しい。包帯がどうなっているのかわからないので、手で直すと取れてしまうかも知れない。
 リュウは呼吸のベストポジションを探すべく、頭をいろいろな方向に動かす。いっそのこと手で直したいという気もあるので両手も不規則に上がったり下がったりと、立っているだけなのにせわしなく体が動いている。
「したくないにゃあ」
 脳が腐っていて自分の行動をコントロールできていないアンデッド系モンスターの動きそのもののリュウに、リンプーは泣き顔になった。
「んんんぅーぉぉ!」
 濁った悲鳴のようなものが部屋に響いた。呼吸が苦しくてリュウの動きが激しくなる。
「むにゃー!」
 リンプーが恐怖のあまりニーナに抱きついた。リンプーをリュウからかばうように、ぎゅっと抱きしめるニーナ。
「大丈夫よ、リンプーちゃん。リュウはリンプーちゃんが約束したことをきちんと守ってくれれば、何もしたりしないわ」
 涙をいっぱいに溜めたリンプーの顔を、ニーナは優しく撫でる。
「……ほんと?」
「ほんとよ」
 すべてを受け入れる慈母の笑みを、リンプーはただ信頼しきって見つめる。
 かくしてリンプーのはきものに関して、絆と信頼が築かれたのであった。



 共同体の男性陣が、暇を装って寮入り口のソファ周りに陣取っている。それぞれカードや会話に興じてはいるが、何となくそわそわとしているのがわかる。リュウもなぜか壁にもたれて本を読んでいる。自室で読めない理由は全くない。
「にゃんにゃんにゃん、にゃんにゃかにゃー」
 でたらめな歌を歌って、リンプーが外から帰ってきた。そのまま階段へと向かう。階段に足をかけた瞬間、視線が一気にリンプーへと集中した。
 結局決まったリンプーのはきものは、もはやはきものとは言わないものになっていた。はかないのだ。腰から膝の上までの布が前後に垂れている。展開すると一本の紐に布が二枚ついているだけだ。後ろの方になる布には尻尾を通す切り欠きがある。
 薄布で作られていたら踊り子の衣装だが、リンプーの物は単なる綿の布だ。一応色をブラジャーと合わせてある。
 踊り子との相違点は、下に何もはいていないということだ。布地の左右はリンプーが自由度を優先した結果、太ももから腰までむき出しになっている。
 布地がひらひらと揺れて、踊り場でくるりと回転した時に隙間から股間が見えたのか、見えなかったのか、見えそうだったのか。誰かの生唾を飲み込む音が聞こえた。
 下半身がすっぽんぽんだった時よりも、確実にいやらしくなっちゃっているよなあ……。
 リュウは本に眼を戻しながら、ちょっとにやけた顔でため息をついた。この間も濡れて帰ってきたのだが、布地が下半身に張り付き、股間と太ももの間に三角形の陰を、お尻の尻たぶの間の谷を、くっきりと強調してしまっていた。
 再びあたりにかりそめのざわめきが戻る。
 そして、今度はニーナが食堂の方から歩いてきた。ざわめきがぎこちないものになる。
 ニーナのドレスのスリットから、ベルトが消えていた。すらりとした太ももが腰の部分まで露出している。ゆっくりと階段を昇り始めると、ざわめきが消えた。
 一瞬、拗ねたような、怒ったような、照れているような視線をリュウに向けるが、そのままつんとすました表情で階段を昇り切ってしまう。
 再び生唾を飲む音が聞こえた。スリットの上端がショーツの際にあるので、ショーツが見えたのかも知れない。
 リュウは少し羨ましく思いながら、本に眼を落として脂汗を流していた。以前言っていた『今度話があるわ』という事と、服装が過激になった事は関係があるのだろうか?
 再び戻ったかりそめのざわめきの中で、リュウは重いため息をついた。キスの件から嫌われてしまった感じがする。
 ざわめきが静まるのではなく、静寂が訪れた。不思議に思ったリュウが顔を上げる。
 ディースが蛇体をくねらせて眼前を通っていた。薄い布でできた服らしきものを身につけている。立体裁断された物なのか、体のラインが裸のようにあらわだ。体の前面上部は胸の先端をぎりぎりに隠し、下部の方も腰の下をわずかに垂れた部分で隠しているに過ぎない。体の後ろ側に布は尻の部分しかなく、尻も谷間が少し見えている。前の部分と後ろの部分をつなげているのは細い紐で、脇から乳房の下側が見えていた。
「ふふっ」
 階段をするすると昇り、静寂を守っている男性陣に艶やかな流し目をする。
 誰一人として注目していない。勿論ディースを恐れてのことだ。
 ディースの微笑みが凍り付くと、一気に憤怒の形相へと変化する。
 共同体の寮が、物理的に崩壊した。



 おしまい



 おまけ



「全くもう! なんでここら辺の男どもは女の魅力というものがわからないのかね! 脳天気な小娘や世間知らずのお姫様なんかよりもあたしの方がよっぽど魅力的でしょうが!」
 そこの部分だけが残って舞台のようになった踊り場で仁王立ちになり、瓦礫の下になっている男性陣に向けてディースが怒鳴った。腕を胸の下で組んでいるので、持ち上げられた胸の先端はかなりぎりぎりの部分で隠れている。
 返事をするものはおらず、どこかで瓦礫が小さく崩れた。
「うぅ……」
 苦痛の声と共に、瓦礫を押しのけてリュウが立ち上がった。じろり、と非難の視線を向けてくるディースに向けて、埃まみれのまま口を開く。
「ディースさん」
 額から血が滴ってきたリュウの言葉に非難の響きはない。
「なによ」
 こちらの言葉には不満と非難の棘があった。
 リュウは淡々と言葉を続けた。表情は埃まみれでうつむき加減なのでわからない。
「女の魅力がわかっているから、みんなまともに見られなかったんですよ。いつもの格好でもみんなそわそわするくらい魅力的なのに、今の格好は刺激的すぎたんです」
 強ばっていたディースの顔が、ぽっと紅く染まった。
「あらやだ、あたしったら」
 胸の部分と股間に当たる部分を隠すようにして、ディースは困ったように頬を染めてそそくさと去っていく。ディースの表情は、見る人が見たら少女のようで可愛らしいと感じたかも知れない。そう感じるのは誰だかわからないが。
 がらがらと瓦礫の落ちる音がして、リュウはそちらを向いた。ニーナが立ち上がって、何かを探している。とっさに障壁を張ったのか、埃っぽくなっているだけで怪我などはないようだ。
「大丈夫?」
 瓦礫に足を取られながら、リュウが近づいて言う。
「えっ、あっ、うん……」
 ちらりとリュウの方を向くが、すぐにまた足下の瓦礫に視線をさまよわせるニーナ。その顔には焦燥が浮かんでいた。
「えーと、何探しているの?」
 やっぱり嫌われているのかな、と少々しょんぼりしながらリュウは尋ねた。
「あ、えっと、リュウちゃんは探さなくていいから」
 慌てた様子で両手を顔の前で振るニーナの頬が、ほんのり染まっていることに気がつく。それほど嫌われているわけでもないらしい、とリュウは胸をなで下ろした。
「それじゃあ……」
 と戻りかけたリュウの足が、柔らかいものを踏んだ。足をどけてみると、瓦礫に混じってぬいぐるみがあった。拾って目の前にかざす。ボタンの眼と青い毛糸の髪の毛をもったぬいぐるみが、リュウににっこりと笑いかける。なぜか親近感がわいた。
「あ、あっ、それっ」
 慌ててリュウに駆け寄ろうとしたニーナがつまずき、リュウがその華奢な体を抱き留める。リュウの腕の中で、本能的に強ばっていた筋肉がゆっくりとほぐれていく。
「ごめんな、大事なもの踏んづけちゃって」
 リュウが自分の過失にうんざりした様子で言った。
「う、ううん。いいのよ」
 渡されたぬいぐるみを抱きしめたニーナは、怒ってはいないのだがなぜか少し不満そうだった。リュウを責めるような視線でじっと見つめる。
「その、色々とごめんね。無理なお願いしたり、それにその、その前には、洞窟で、その」
 視線を見つめ返して、リュウが詫びた。リュウを責める視線は変わらない。
 ため息をついてリュウは眼を閉じた。ニーナがいたずらっぽく微笑む。
 続けて謝罪の言葉を紡ごうとしていた唇に、柔らかくて温かいものが触れた。
 驚いてリュウが眼を開いた時には、ニーナの顔が離れていく所だった。満足げに、いたずらに成功した少女のようにニーナが微笑む。
「この間、『今度話がある』って言ったけど、これで許してあげる」
 嬉しそうに微笑んだまま、ゆっくりと後ろ向きに歩いて去っていくニーナ。いとおしそうに抱きしめたぬいぐるみの埃を払う。
「あっ、それ!」
 ようやくぬいぐるみのモデルが誰なのかに気づき、リュウは叫んだ。
「……ひみつ」
 ニーナは恥ずかしそうに言うと、羽を打ち振るって瓦礫を避け、去っていった。
 瓦礫の中で一人立ちつくしたリュウの腹の底から、喜びがこみ上げてくる。
「ははっ、あははははっ」
 色々な事を心配していた自分が馬鹿らしくて、笑いがこみ上げた。リュウは瓦礫の中に立ちつくして笑い続ける。
「……良かったら何があったか説明してくれないか、相棒」
 獲物をかついで猟から帰ってきたボッシュが、半ば唖然としながら心配そうに声をかけた。



 おしまい



 おまけのおまけ



「見たにゃ」
 瓦礫の下から、低い声が責めるように響いた。



 ほんとにおしまい
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  1. 2009/02/05(木) 08:56:13|
  2. ブレス オブ ファイアII
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